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2015年6月23日

ナイキ ズーム チーム 速さの代表

世界の陸上界でも屈指の速さを誇る選手たちの、速さを求める姿勢やDNAに埋め込まれているスピードへのあくなき探求心が彼らを突き動かしていることは、ナイキにも共通します。

ズームを着用しているメンバーは、リオへの道のりで、目まぐるしい速さで夏を迎えようとしています。すでに名を成したレジェンドも、これからの若手アスリートにも、2つの共通点があります。それは炎のようなスピードで圧倒することと、ナイキのシューズの中でも最も早く、反発性に優れたクッショニング システムのナイキ ズーム エアのフットウェアで練習を重ねていることです。

無敵の速さを誇る選手

  • モー・ファラー: オリンピックチャンピオン2回、世界チャンピオン3回
  • アリソン・フェリックス: オリンピックメダル6個獲得
  • メアリー・ケイン: アメリカチャンピオン2回
  • ジョーダン・ハセイ: NCAAインドアチャンピオン2回
  • マシュー・セントロウィッツJr: アメリカアウトドアチャンピオン2回
  • ゲーレン・ラップ: 5大会連続アメリカチャンピオン
  • シェリー=アン・フレーザー=プライス: オリンピックチャンピオン2回、世界チャンピオン2回
  • メリッサ・ビショップ: カナダチャンピオン2回
  • ローラ・ロースラー: NCAAチャンピオン5回
  • ダリア・クリシュナ: ヨーロッパチャンピオン3回
  • 大迫傑: ユニバーシアード 10,000 金メダル
  • セルゲイ・シュベンコフ: ヨーロッパチャンピオン3回
  • アダム・クチョット: ヨーロッパチャンピオン5回
  • アンドリュー・オサジー: 世界インドア銅メダル2回
  • アナ・クラウディア・リモス・シルヴァ: 南アメリカチャンピオン5回
  • ハナ・イングランド: UKチャンピオン3回
  • ベスウェル・バーゲン: 2014世界インドア選手権1マイル種目でケニア人トップ
  • マイディーヌ・メキシ: ヨーロッパチャンピオン3回
  • 王春雨: アジア大会チャンピオン

アスリートが速くなるために

ナイキとアスリートの関係は、アスリートを速くするための役に立ちたい、という目的から生まれたもので、これはナイキの共同創立者であるビル・バウワーマンと、陸上界のレジェンド、スティーブ・プリフォンテーンが築いた歴史に基づいています。オレゴン州ユージーンの陸上トラックで、限界を超える運動能力をさらに高めるイノベーションを提供したい、という熱意から育まれ、それが今や世界中、あらゆるスポーツにまでひろがり進化しました。それは今、ズームを着用するアスリートたちにも活かされています。

ズームを着用しているアスリート

モー・ファラー:普通に見えてすごく速い

色々な意味でモー・ファラーはロンドンにいる普通の若者とほとんど変わりません。本当はフットボールがやりたくて、大好きなアーセナルフットボールクラブで活躍することを夢見ていました。とはいえ、彼は普通ではありません。8歳の時にソマリアから家族で移住した彼は、フットボーラーとしては活躍できませんでしたが、ほかの誰もが持っていないものを持っていました。それはスピードです。しかもかなりの速さのスピードです。運命は、彼をアーセナルではなく、トラックへと導きました。その彼は、21世紀のイギリスのヒーローになろうとしています。

初めてイギリスチャンピオンになったのは若干14歳の時で、その翌年にはヨーロッパ陸上ジュニア選手権の5,000mで優勝します。以来、彼は天性の才能に、稀に見る熱意を陸上に注いでいます。「クリスマスも含めて、どんな日も毎日練習します」と彼は述べます。それはアーセナルのホームスタジアムからほんの数マイル離れた場所で、情熱的な愛国心を燃やすイギリス国民に金メダルをもたらすためです。

ロンドンで行われた10,000mファイナルは、一世一代のレースとなりました。フィニッシュラインを超えた後、信じられないかのような表情で周りを見渡すと、嬉しいことに彼の後ろには練習仲間のゲーレン・ラップが銀メダルのゴールをしていました。

「すごい、クレイジーなことだ。コーチは僕たちが1位と2位でフィニッシュするだろうと言っていたけれど、誰が先になるかは、はっきり分からずにいた。そしてあの場所に立って、全てが現実になっていくのを見た時、本当に信じられなかった。涙が流れそうになる、本当に感動した一瞬でした。」

黄金にも匹敵する、彼にとって救われる思いの瞬間でした。「不調な時もあったけれど、2つのゴールドを取れたのは嬉しいです。勝てないのではないか、と多くの人に囁かれていましたが、きっちりと仕事をすることができました。」ちなみにお祝いは、1年ぶりのハンバーガーでした。

  • オリンピック 金メダル 5,000m, 10,000m
  • 世界チャンピオン3回 5,000m, 10,000m
  • 2015年2月、室内2マイルで自身初の世界記録樹立

アリソン・フェリックス:細い足が生み出す偉大なスピード

体重はたった125ポンド(約56kg)で、獲得したオリンピック金メダルが4つ。アリソン・フェリックスはスピードそのものです。現在ではランニングに専念していますが、高校1年で初めてトラックに立った時、自分がズームのチームメンバーになるとは考え難いことでした。当時はぎこちない走りを見せながら、その2ヶ月後にはカリフォルニアの州大会でトップ10の成績を納めます。その瞬間からアリソン・フェリックスはレジェンドへの道を歩みだしたのです。

2005年の世界選手権200mでは短距離で史上最年少の金メダリストとなり、2007年には一度の世界選手権で3つの金メダルを獲得した二人目の女性になるという歴史を作りました。さらに、米国オリンピック委員会により、2011-2012スポーツウーマン・オブ・ザ・イヤーに選ばれ、アメリカ陸上界最大の栄誉である、ジェジー・オーウェンズ・アワードを3度受賞しています。北京の200mの銀メダルという悔しさをロンドンへのやる気に繋げ、4年間毎日続く熱心な練習をオリンピック史に残る偉大なパフォーマンスに繋げました。1988年のフローレンス・グリフィス=ジョイナー以来、初めてオリンピック陸上競技で3つの金メダルを獲得したアメリカ女子選手となったのです。

それが、彼女自身が言う「スプリンター向けとはいえない身体」から生まれているのです。おそらく心が身体を速くしているのでしょう。「私は典型的なスプリンターです。我慢強く待ったり、レース戦略に沿って走ったり、エネルギーを温存するということは私にとっては難しいことです。単純に速く走りたいから。」実際速いとしても、そのスピードにも時間がかかっていることを彼女は熟知しています。「速く走るためには長い時間がかかるプロセスが必要なのです。」

  • オリンピックメダル6回獲得、アメリカ女子選手として1度のオリンピック大会で3つの金メダルを獲得した二人目の選手
  • 世界アウトドアチャンピオン3回、女子選手として初めて3回連続で200m優勝

シェリー=アン・フレーザー=プライス:ステルス爆弾

彼女は常に誰かに忍び寄っていくような存在にも感じます。シェリー=アン・フレーザー=プライスはズームのチームメンバーの秘密兵器です。長い間、誰も彼女の進歩に気づいていないようで、自分が最速となった時には、自分が遅く感じるのです。「面白いことですが、自分が遅く走っていると感じる時に、一番速くなっていることがあるのです。」

彼女の走りには、何か秘密があるようです。北京ではジャマイカ人女子選手としてオリンピック100mで初めてのゴールドメダリストとなった時、彼女は「無名の存在」と呼ばれました。高校生の時には200mの試合には出たこともない、その彼女が世界チャンピオンになったのです。ジャマイカ政府は彼女に「特使」を任じた時、彼女自身も驚きました。「ウォーターハウス・コミュニテイ出身の女の子がこんなことになるとは誰が予想できたでしょう・・・」

「生まれ育った環境が、我慢強さ、一生懸命働くこと、そしてスラム街で生き延びる意思の強さを与えてくれました。その環境から抜け出すため、自分と家族のために一生懸命でした。叔母、いとこ、母、兄弟たち家族とは、とても強く繋がっています。特に私が進学する大学を決める時、祖母の意見が大きな決定理由になりました。」と彼女は話しています。

150cmの小さな彼女は、一見目立たない存在なのかもしれませんが、それでも今では彼女を見逃すことはできません。今では「ポケット・ロケット」と呼ばれる彼女は有名人で、フェイスブックには585,000人を超えるファンがいます。「インスタグラムやツイッターも好きです。写真一枚は何千もの言葉を伝えてくれます。時にはファンにオンラインで返事を書いて驚かれます。よくもらうコメントは、私の笑顔が好きだということ、そして私が本当に小柄でびっくりしたということです。ファンの中でもとりわけ子供が好きです。一緒に過ごす時間が楽しくてたまりません。」と彼女は話しています。

今では世界陸上界の中心に立つ存在となった彼女は、小さい頃からの人目を引くニックネームそのもののような存在になっています。高校の時のニックネームは、「バッタでした。いつも緑のウエアを着ていて、誰よりも小柄だったから。」大学ではメデューサと呼ばれました。それは彼女の教師たちが、「彼女が呆れるほどの熱意で学業に専念しながら、オリンピックチャンピオンになるための練習をしている。」と感じたからです。それから、彼女はオリンピックチャンピオンとなり、その先を見つめています。「100mでオリンピック金メダルを3つ獲得するという歴史を作りたい。」

  • 100m走 オリンピック金メダル 2回
  • 世界チャンピオン5回 100m, 200m, 4x100m

ゲーレン・ラップ:成長も速い

オレゴン出身で速く走れるとなると、最初にどんなスポーツを始めたとしても結局ランニングにたどり着くことになります。ゲーレン・ラップの場合も、ズームのチームメンバーにたどり着くことになります。オレゴン出身のゲーレン・ラップは、楽しさからサッカーボールを追い回していましたが、高校1年の時に気づいたのです。「アルベルトと練習を初めてほんの数週間たった頃、アルベルトは私をジュニアオリンピックの地区予選にエントリーさせたのです。週に6日も7日も走るなんて、当時はとても大変に感じました。でも私は州大会、地区大会に勝って、全国大会で2位になったのです。」とゲーレンは話します。

「アルベルトは後になって、私がしっかりと頑張れば世界でも指折りの長距離選手になるだろうと思った、と話してくれました。世界記録をとったことのある彼からその言葉を聞くことで、世界でもやれる、という自信が湧いて、走り続けた場合の可能性に気づいたのです。私は陸上を愛するオレゴンで育ちました。スティーブ・プリフォンテーン、ルーディ・チャパ、アルベルト・サラザール、そしてビリー・マックチェスニーなどの偉大な選手がオレゴン大学を通過点としていることを尊敬しており、私もオレゴンで学び、そのすばらしい歴史の一部になることをとても嬉しく思っています。」とゲーレンは話します。

「インチレベルでの戦いです。ジュニアレベルの試合でもアフリカのトップ選手はとてもすごい記録を出しています。それでも私はそのうちに彼らに追いつき、さらに追い越せるようになると思っていました。ただそのためには毎年少しずつでも差を詰めて、近づいていかなくてはいけなかったのです。自分がどれだけやるかはすべて自分次第です。自分が完全にコントロールできることです。私は自分の練習量を誇りに思っていますし、それらをこなすことでレースのスタートラインに立つ時には、自分よりもきつい練習をした人はいない、という大きな自信を持てるようになります。」とゲーレンは続けます。

その後どうなったかは、地元で語り継がれ、アメリカランニング史の一部にもなりました。オレゴン州高校選手権で5回優勝、オレゴン大学“ダックス”にNCAAタイトルをもたらし、様々な記録を樹立。大学陸上の最優秀選手となり憧れのバウワーマンアワードを受賞、世界選手権でも頭角を見せ、ロンドンでは銀。「オレゴン大の4年生、インドアシーズン中に何かが弾け、それ以来本当に止まらない感じでした。その時は大学に入って、初めてのクロスカントリー全国優勝を果たしたばかりの時でした。その頃やっと、レースではなるべくリラックスするように自分に言い聞かせるようになり、自分に集中し、リードしてそのまま走り抜けることを心がけるようになっていました。練習中にもかなりそれを目指して練習をしていたのですが、NCAA室内選手権の時に実行することができたのです。そこから弾みがつき、5,000mで勝ち、次の日にも3,000mで勝つことができました。」

オレゴンではスピードがあると、近道ができることがあります。そして彼は何年も前から陸上界の偉大な存在につながりを持っていました。「高校生の時に、フィル・ナイトとアルベルト・サラザールと話したことを覚えています。二人は、常にやるべきことをやるように、と言ってくれました。それはトレーニングでやるべきことをしっかりと行い、簡単な方法を選ばない、ということか、人間として正直で信頼に価値ある人になるべき、ということかはわかりませんが、いずれにしてもその言葉は忘れることはありません。」そして今、彼の夢は大きく膨らんでいます。「未来の人たちに、私はこんなことを行い、それが彼らにもできることであるという可能性を感じさせて、刺激を与えられるような人になれたら嬉しいです。」

  • オリンピック銀メダル 10,000m
  • アメリカアウトドアチャンピオン6回 10,000m
  • アメリカ記録保持者 10,000m, インドア 3,000m, 5,000 & 2-mile

ジョーダン・ハセイ:かわいい子馬の強力なキック

タテガミのようなポニーテールのために「リトル・ポニー」の愛称で呼ばれる彼女は中学時代から記録を出しており、彼女の速さはよく知られていました。「4年生の時に体育の先生が、10分間のランニングで私が男の子全員を負かしていたことに気づきました。私はただ楽しかっただけです。いつも学校の椅子の端に座り、授業の終わりを告げるベルがなると、すぐに走り出せるように待っていました。トラックへ向かう芝の上を走る気持ちは何よりも大好きでした。解放感と興奮を感じていました。自分の肺や足が一生懸命頑張っているという感覚も大好きでした。」そして彼女はズームのチームメンバーへの道を進みました。

スポーツ一家に育ったことも役に立ちました。「家族全員がアスリートなんです。」と彼女。「小さい頃から、健康的なライフスタイルを送るという面では両親がお手本になりました。今プロアスリートになっても、私のすることすべてを理解してもらえるのでとても楽です。」ジョーダンの兄はプロのスタンドアップ・パドルボーダーで、彼女もカリフォルニアの自宅に戻ると一緒にサーフィンを楽しんでリラックスします。

彼女は他の面でも家族から刺激を得ています。「初めてプロになった時におばあちゃんからもらった幸運の指輪を持っているんです。初めてのレースでそれをつけて走り、自己記録の11秒を出しました。今でも練習につけると、あきらめないこと、と言い聞かせてくれる存在です。」
そのほんの数年前の中学1年生の時、(オレゴン大学の)ヘイワードフィールドで行われたジュニアオリンピックに出場し、1,500m、3,000mの両種目でアメリカ記録を樹立しました。そして、2008年にポーランドで行われたジュニア世界選手権の数日前、16歳のジョーダンはユージーン(ヘイワードフィールド)で行われたアメリカオリンピック予選の1,500m でアメリカ高校生記録を樹立しました。観衆が叫ぶ「オレゴンに来て!オレゴン大学へ!」の声に答え、彼女は歴史に残る記録を作ったアメリカ高校生ランナーとして(オレゴン大学)「ダックス」の一員となりました。現在では、プロとしてオレゴンで練習を続け、距離を伸ばし、スピードを高め、大会ごとに個人記録を作り続けています。それも速いスピードで、です。「2016年のオリンピックチームに選ばれて、オリンピックや世界選手権でメダルを取りたいです。5k、10kとマラソンのアメリカ記録も破りたいです。常に自分のベストを尽くし、すべての機会を最大限に生かすことを、常に自分のやる気にしています。その過程を楽しみ、その過程で与えられた時間を有効に使うことを心がけています。」

若いアスリートが彼女に憧れていることも意識しています。「私のやっていることが、できるだけ多くの人と繋がる機会になるようにしています。特に小さい子供に刺激を与えられることを嬉しく思います。ソーシャルメディアを活用したり、あるいはレースで勝っても負けても、常にファンと交わることを心がけています。また、アスリートに憧れる子供の視点に立って考えるようにしています。」

その体型を維持するための食事は?と聞かれると、彼女は次のように答えます。「ビーツが好きで、毎晩サラダにして食べています。ミルク、ヨーグルト、チーズなど乳製品も大好きです。家にいる時は地元のレストランのピザを食べるのが好きです。おやつではウェルサーズが好きで、夕食後に毎日食べています。」

  • 16歳でオリンピック予選決勝出場 1,500m
  • アメリカ高校生記録 1,500m

マシュー・セントロウィッツ Jr:エリートランニングの血統

アメリカン大学の陸上部監督で、オリンピックにも2度出場したランナーであった父は、マシューの陸上への関心が生まれるのを遅らせるために、自分の考えとは逆のことを話す逆心理を実践していました。特定のスポーツのための練習の中では、ランニングは恐れられがちです。しかしマシュー・セントロウィッツにとっては、そんなことはありませんでした。「何周も走ったり、体育の授業で何マイルも走ったりすることは嫌いではありませんでした。いつも他の人よりもたくさん走ったり、最初に走り終わったりしていました。だから、例えばサッカーやその他のスポーツではそれほどうまくならないと思ったら、いつでも陸上があると考えていたのです。」そして彼は単に陸上の世界のみならず、ズームのチームメンバーになったのです。

エリートランナーがどうやってスピードをつけたか、と聞かれると、おそらくトレーニングや強い意思によって、と答えるでしょう。マシューの場合、遺伝子だと言います。「両親から来ています。なんでそう言えるかの理由は、父は2度オリンピックに出ており、母もランナーだからです。」彼が大きなレースで落ち着いていられるのも、家系のせいかもしれません。「大きな選手権では、一番快適に走れます。タイムを気にすることは好きではないので、勝つことだけ気にします。それがレースだからです。速いレースに出ると、2位とか4位になるだけでも、あるいは記録を破ったりするだけで十分という人もいます。しかし私はいつもチャンピオンを目指します。タイムより自分が何位になるか、それを誰よりも強く考えています。」

マシューがサッカーから陸上に転向したのは高校生になってからでした。オレゴン大学では、スティーブ・プリフォンテーン以来、初めて、「ダック」としてアメリカアウトドア選手権の1,500mで優勝しました。(2011、2013年)目覚ましい成功を収めたのち、大学生資格を全うせずに、プロに転向しました。世界選手権の銀と銅を獲得した1,500mのスター選手は自分のメダルコレクションに金を加えたいと目論んでいます。現在はナイキ オレゴン プロジェクトの一員として練習する彼は、自己記録更新を続け、全国各地の大会記録を更新しつつ、金を目指し続けています。「50%はスピードの、50%は持久力をつける練習をしています。私はギアを変えることで知られていると思います。1,500mを走る中でペースの変更を常にやっています。レースでスローなペースから速いペースに変わった時、私はいつでも早めに、先頭の選手より速いくらいのスピードを出して対応することができます。ギアを変えられることが私の強みと言えるのでしょう。」

戦術家として、そして同時に血筋に恵まれていることで知られている彼ですが、まもなくそのスピードも世界に知られることとなります。「誰にもアドレナリンが湧き出すようなことがあると思います。私は自分が速くいけるとわかっている時には、ランナーズハイとは呼びたくないのですが、アドレナリンが湧き出します。特別なことをやってのけるという自覚です。難しいことなのに、簡単ではないけど、それでも先頭に立って良い調子で走るというのは楽しいからです」そして全てがうまくいく時には?という質問に対して次のように答えています。「人の手に負えなくなるように感じます。まるでその日は勢いが止まらない感じです。全てが好調で、ギアがしっかりと入る。本当に無敵だと感じられます。」

  • アメリカアウトドアチャンピオン 2回
  • ディビジョン1 オールアメリカン 7度選出

メリッサ・ビショップ:オンタリオの小さな街からオリンピックの大舞台へ

中学2年生でやっと陸上トラックに足を踏み出すまで、彼女はサッカー、ホッケーとバレーボールをやっていました。メリッサがズームのチームメンバーに至るまでには、長い道のりがありました。2年生の時の先生には鹿のように走ると言われ、地元のサッカーコーチに紹介され、コーチも彼女のストライドをみて「いつかオリンピックに行く」のではないかと、彼女の家族に告げていました。家族は、オタワでの2、3時間の練習のために、彼女を実家の街から2時間かけて車で送り迎えしていました。当時、彼女の地元には350mの砂利のトラックが1つしかありませんでした。彼女は常にスピードや高みを求め続けていたのです。

「私のキャリアにとって家族は大きな役割を担ってくれています。家族なしには自分の可能性に気づくこともできませんでした。家族の時間、支出とさまざまな努力がなければ無理でした。今でも私の最大のサポーターであり、常に私が、何か理由があってこの道に立たされ、この才能を与えられたのだと思い起こさせてくれる存在です。たまに浮かれてしまいそうになりますが、家族は私の頼りになる、明確な視野を与えてくれるような存在です。」

すべてのことには何か理由があるのだ、という母親の言葉に励まされています。「小さい頃から聞かされてきた言葉です。勝った時、負けた時、怪我をしたり、病気をしたり、彼氏と別れた時も、おまじないのように聞かされてきました。大きな目的があって、常にそこへの道はまっすぐとは限らない。道の途中には凸凹しているところもあって、一歩ずつ、毎日少し進むことを自分なりに学んでいます。」レースを走ることについては、「800mが気持ちよくなることはないと思います。速くても遅くても、辛い。それなら速い方がいい。」メリッサは800mでカナダ最速の女性として、名前の後に「オリンピアン」の言葉がなんども加えられ、そしてトラックでもそれ以外でも、夢を追う人を励ます存在として名を残したいと望んでいます。

  • オリンピアン 800m
  • カナダチャンピオン 2回 800m

メアリー・ケイン:ペースを作る速さと安定感

5年生の時の1マイル記録が6.15、中学1年生では5.03で、しかもこれは、コーチの指導を受けずに走った記録です。メアリー・ケインがズームのチームメンバーになる意思は内側から湧き出るものでした。「小さい頃から、運動のクラスで1マイル走って以来、ランニングが大好きになったのです。地元のトレイルを走るうちにもっと好きになりました。外にいて、考え事をするのが好きで、ランニングはそのためには完璧な方法なのです。」彼女は今でも初めての大きな勝利のことを覚えています。「初めて自分がいいランナーになれるかもしれないと思ったのは中学3年生の時でした。同学年で一番足が速かったのが私ともう一人の男の子だったのですが、トラックで競争することになりました。そして私が大差をつけて勝ったのです。」彼女がもっと速くなるために、無理に押し付けることなく支援してくれた家族のおかげでもあると感じています。

「だから私が走りたいという気持ちは、他でもない自分の心の中から生まれるのです。」と彼女ははなします。だから彼女は家にいるときが一番幸せです。「家に戻って、地元の試合で走るときが、心から幸せを感じる瞬間です。実家を離れ、大学に入って1年しかたっていませんが、家に帰って兄弟と一緒に過ごすときが一番楽しいです。」自分の心をクリアにし、気の流れを感じる瞬間が好きだと話します。

彼女にはもう一つ母親の影響を受けたことがあります。それは、もう一人のメアリー、メアリー・デッカーへの憧れです。メアリー・ケインもいつの日か、憧れの存在にひけを取らないような伝説を残したいと望んでいます。その夢を果たすことが彼女の内側から意欲となって湧き上がります。「いつも朝起きるときに、あらゆる人のことを思い浮かべます。今起き上がらないと、ライバルたちに一歩先を越されると。また、ここに至るまでどれだけ自分が頑張ってきたか、ということも考えます。だから、朝起きないことは、誰でもなく自分と自分の夢をしくじることになるのだと感じています。」

実家で過ごした高校生時代、メアリーはアメリカジュニア、世界ジュニアと高校生記録を12も樹立しました。しかし、それ以上に重大な事件は、2012年の10月のある晩、ナイキ オレゴン プロジェクトのアルベルト・サラザールが彼女の家を訪れたことでした。彼は彼女の両親に彼女が秘める可能性と、彼女が速くなるために何をすべきかを伝えました。メアリーは天性の才能に磨きをかけ、高校卒業とともにプロへと転向しました。彼女はオレゴン州ポートランドで、サラザールと練習を続けています。一流の長距離ランナーとして自分で努力を重ねてきた一方、メアリーはこのスポーツの大事な真実も理解しています。「ランナーのグループの後ろを走っているときには、自分に最後まで勝負は終わらないと言い聞かせます。勝負が決まるのは最後の最後だと。レースの前にも後にも諦めるのはいやです。」

「「冷静に、戦い続けよ」という言葉を心に刻んで実行しようと努めています。今年は調子が悪いことも多かったのですが、この言葉に常に励まされました。そして自分がどんなに恵まれているかを忘れないようにしています。こんなに機会が与えられて、走るだけの健康な体を持っている。何よりも、私はオリンピックを目指しています。それがすべてを導く夢なのです。アメリカ最高の女子中距離ランナーと思われたい。もちろん、メアリー・デッカーをここから追い抜くことは難しいでしょうが、だからそれを夢見ているのです。」

  • 16歳でオリンピック予選決勝進出, 1,500m
  • アメリカ インドア チャンピオン2回, 1,500m

ローラ・ロースラー:2006年のノースダコタはロースラーの年

高校1年で高校陸上界に現れたローラは、ノースダコタ州のクロスカントリーと陸上に旋風を巻き起こしました。彼女がズームのチームメンバーになるための第一歩は、ノースダコタでのスポットライトの当たらないところから始まりました。1年生で州のクロスカントリー大会で優勝したのに加え、ローラのスピードへの愛はトラックにも広がり、州の陸上大会では短中距離種目で圧倒的な成績を収め、卒業までには州大会優勝を22回も経験しています。

しかし、彼女は高校での敗北がキャリアの転換点の一つだと言います。「高校3年生の州陸上大会のとき、5、6年ぶりに初めてレースで負けたのです。私は自分が焦って、悲しみに打ちのめされるのではないかと思っていたのですが、実際にはホッとして、それまでの長い間感じたことのないリラックスした気持ちになったんです。家族、友達やたくさんの観客は、それでも私を応援し続けていてくれて、その時になって自分を決めるのは勝ち負けではなくて、私がどんな反応をしたかとか、私の人となりがみんなの記憶に一番残るのだと気がついたのです。ノースダコタ出身ということも気に入っています。高いレベルで自分の州を代表する存在だと感じられるからです。オレゴン大学に通っているのもとても特別なことです。まるで新しいファンの家族に受け入れられているように感じますし、彼らは単に「ダックス」のファンであるのみならず陸上も大好きだからです。」と彼女は話します。

オレゴンでランニングをするというのはローラが望んでいたことでした。多くのエリートアスリートは大学生として走る資格を選ばずにまっすぐプロになりますが、ローラは自分がまだ発展途上にあるため、教育とそして何より大学チームで走るということを望んだのです。グループでの短距離トレーニングがプロになるための準備となり、NCAAディビジョン1全国チャンピオンに5回、オールアメリカンに17回選出されることも実現したのです。サン・アントニオでのプロとしてのトレーニングは、持久力にフォーカスしたものですが、ローラは、「私の強みはスピードで、それは忘れないようにしています。」と話します。そして、彼女は自分が何を残せるか、ということも意識しています。「私は全力を尽くし切った選手として、記憶されるようになりたいです。ファイターとして、夢の実現のために力を尽くした人、一生懸命努力して、自分らしさを忘れず、謙虚に、感謝と向上心を忘れない人になりたい。それがメダルに繋がるかどうかに関わらず、そんな風に私のことを思ってくれる人がいれば、それが私にとっての成功です。」

ローラが尊敬するのはサンヤ・リチャーズ=ロスです。「一番の憧れです。長い間トップの座にいて、それでもなんら変わることない価値観を持ち続けていました。いつでも自制心を持ち、謙虚で素晴らしい人です。私は16歳の時オリンピック予選で彼女と会うことがあったのですが、彼女はわざわざ私に話しかけてくれて、それが本当に心がこもっているように感じました。本当に成功していた人が、そんな優しい態度や性格を見せてくれたのを直接感じたのでとても感動しました。」大変な速さを持ちながら、彼女は躊躇なくスローダウンしてピアノをひいたり、ハイキングや読書も楽しみます。「私は読書家です。少なくとも月に2冊は読みます。あと、太陽の光を浴びることも、プールサイドでのんびり寝転がったりすることも好きです。ただし、泳ぐのはクロストレーニングとして泳がなくてはいけない時だけです!」

彼女が最も怖れていることは、「自分がどんな人か、自分がどこから来たかを見失うこと。成功や失敗で判断されることが多い世界や競技の中で生活していると、自分自身が試合に飲み込まれそうになってしまいます。最近母から、私が成功しているからではなくて、今の私の人となりを誇りに思う、といわれました。同時に彼女から私にそのことを忘れないように、常に謙虚であるようにとも言われました。それは私にとっても大事ですが、特に母にとっても大事なのですから、さらに大事なことだと思います。母をがっかりさせないためにも。」

彼女の座右の銘は、自分がコントロールできることをコントロールする、というもの。「大学のコーチから教えられた言葉ですが、私の心に本当にささりました。私は典型的なA型の性格で、生活でもレースについてもあらゆることを自分の思いとおりにしないと我慢できないタイプです。私ができることだけコントロールすることに集中して、個人としてとても強くなれるように感じます。」

  • NCAAディビジョン1全国チャンピオン5回、オールアメリカン17回選出
  • 最も価値のある女子学生アスリートとして、栄誉あるバウワーマンアワード受賞

アダム・クチョット:農家、大工から国内記録保持者へ

ポーランドの農場で育ったアダムにとって、一生懸命に仕事をすれば結果が目に見える、ということは経験上の事実でした。しかし同時に、最初にしっかりとした決断が必要であることも知っていました。

ケニアの選手が愛情を込めて「コスコット」と呼ぶ彼にとって、トラックでズームのチームメンバーに至るレベルのパフォーマンスを発揮するためには、まず自信が必要でした。「すべて心の中から始まる。私は自分のテクニックを高めるためにまず動きを想像します。レースの時も理想の心の状態で望みます。」トップランナーになるまで、フットボール、バレーボール、バスケットボール、ランニングと、彼はあらゆるスポーツに取り組みました。ランニングを始めたのは4年生の時。年上の生徒に簡単に勝っていましたが、大きな街の高校に通うことを決めるまで、それが自分のキャリアになるとは思いませんでした。

それでも、1年生の時にはランニングの怪我に悩まされ、学校をやめて村に戻ろうと考えました。しかし母親がなんとかその年の最後まで頑張るように説得し、これにより2学期目にはジュニアヨーロッパ選手権の800mで銀メダルをとったのです。

それ以来、彼はランニングに夢中になりました。今25歳の彼は、厳しいプロとしてのトレーニングスケジュールをこなしながら、最近ロッツ大学でエンジニアリングの学位を修得しました。現在エリートランナーとなったアダムの努力は報われようとしており、トラックをはなれた時には、若いファンとのつながりも楽しんでいます。「時間がある時には小学生に会いに行き、アスリートの生活の楽しさを話しているんです!」彼は子供にスポーツすることを促したり、ファンと交わり、人々に刺激を与えたり、「私の話を世界に伝える」ことも楽しんでいます。ランニング以外には?との質問には次のように答えています。「奥さんと猫と一緒に家で過ごすことが好きで、とても平和な気持ちになれるんです!」

レースについては、「スピードのない800mなんてありえない。私はスプリンターですから。」だから彼のゴールもシンプルを極めたものになるのでしょう。「自分を超えるほど、できるだけもっと速くなること。」

  • ヨーロッパチャンピオン 3回 800m
  • 世界インドアチャンピオンメダリスト 2回
  • ポーランド記録保持者 800m

セルゲイ・シュベンコフ:レベルが上がるほど速くなる

シベリアの小さな街、バルナウルに生まれたセルゲイは、プレッシャーがある時ほど強さを見せます。大きな戦いほど良い結果が出せます。子供の頃、セルゲイはたくさんのスポーツに参加し、ランニングは12歳の頃に放課後の活動として始めました。彼の母親で、1986年にはヨーロッパ選手権の7種競技銀メダリストのナタリア・シュベンコワは、彼が真剣に走るのをやめさせようとしたほどです。自分が80年代に使用していた70年代に作られた施設は荒廃しており、それによって彼の成功も難しくなるだろうと恐れたのです。しかし長いシベリアの冬と標準以下のトレーニング環境という逆境が、セルゲイを強くし、強い意思と目的を持たせ、ズームのメンバーらしいシンプルなゴールを持った選手へと育てたのです。「いつでも私は参加するすべての試合に勝つことがゴールです。」

しかし彼は完璧を求めます。「私はいつも、アリエス・メリットと世界記録をとった後に話をしたことを例にしているのですが、彼はその時「どうしよう、すべてが完璧だったよ」と、もうそれ以上のことはできなかったかのように話していたのです。私はまだ、あらゆることが完璧になったというところに向かっている途中なのだと思います。それができたことがないのです。理由はわかりません。体の状態が十分でないのか、強さが足りないのか・・・」あるいはまだ彼にその時がきていないだけなのかもしれません。

彼は、速さが自分を待ち構えていることをわかっているでしょう。「私が本当に速い時、例えば世界選手権で3位だった時やヨーロッパで優勝した時、そんな時はスタートの砲弾が打たれ、そしてフィニッシュラインを切る、以上。という感じなのです。その時の距離とか、走り方とかを思い出そうとしても、何も記憶にないのです。」チャレンジはありますが、彼は60m, 110mハードルで国際的に目覚ましい成果をあげています。ヨーロッパ選手権では金メダル、世界選手権とオリンピックでは銅メダルなどを獲得し、現在はスピードと体の状態を研ぎ澄ますことに、そしてレースを走るごとに新しいことを学ぶことにフォーカスしています。メンタルなアプローチとしてよかったと思う経験は、2014年の欧州選手権の時のことです。「私は一番速いというわけではありませんでした。ただ、ファイナルで他のみんなが失敗してしまい、私が一位になったんです。それはただ、私が心を落ち着け、集中していたからです。」シベリアの村で育ったことで、ハードル程度の障害は楽にこなせるようになっていたのかもしれません。

  • 世界選手権 銅メダル, 110m ハードル
  • ヨーロッパアウトドアチャンピオン2回 110m ハードル

ダリア・クリシュナ:チームプレイヤーが転じて一匹狼に

ダリア・クリシュナは8歳の時からバレーボールを始めました。13歳まではそれが彼女にとっての一番のスポーツだったのです。ロシアの小さな街、トヴェリで市が主催するリレーに参加した時、目利きのコーチが彼女を見かけ、真剣に陸上に取り組むことを勧めました。ダリアは2つのスポーツをしっかりと両立することは不可能と考えて決断を下しました。自身も陸上選手であったダリアの両親も、彼女の転向を支持しました。その時一つだけ彼女が言われたことは、陸上は個人競技であり、バレーボールはチームでやるものであること。彼女もその違いを理解し、自分の道を決めたのです。

長い脚と細い体が、走り幅跳び向きだということを発見するまで、ダリアとコーチはハードル、短距離と三段跳びも試しました。「コーチは私のやることを観察してくれて、最後に私は跳躍向きだと判断したのです。」彼女自身、100m以上の距離を走るのは好きではなく、練習で好きだったのはウエイト リフティングだったと言います。ウエイトルームの静けさや、持ち上げる時の技術へのこだわりを楽しんでいるのです。「ウエイト トレーニングはとても静かで、それほど早くないので好きです。トラックではもちろんテクニカルな練習が好きです。頭を使いますがとても面白いです。」

クリシュナにとって、スピードはフィニッシュラインに行くものではなく、飛び上がるためのものです。「ロングジャンパーに必要なものは、スピード、ランニングとジャンピング技術のバランスです。」そして彼女は成功を頭にイメージすることもできます。「頭の中で、絵が出来上がっているのです。最高のランニングテクニック、スピードを感じ始め、そしてスピードが最大になる、そのプロセスがとても気持ちいい感じです、そしてその後にはもちろん、ジャンピング技術が大事です。」

  • ヨーロッパチャンピオン 3回 走り幅跳び
  • ロシアジュニア記録 走り幅跳び

大迫傑:太平洋を超えたもう一つの日本生まれのスピードマシン

大迫傑は日本の記録を塗り替えるために日本を離れました。ベストになるためにはベストを超えなくてはいけない。大迫傑は日本の学生ナンバー1ランナーとして、元オリンピック選手の渡辺康幸コーチの下で練習を重ね、常にベストを超える活躍を続けていました。しかし、ほんの僅差でオリンピック代表入りを逃して間も無く、荷物をまとめて太平洋を渡り、ナイキ オレゴン プロジェクトのアルベルト・サラザールのもとで練習を始めました。以来、日本記録を3度更新し、最近ではミルローズゲームズで5,000m13.28.00 の記録を作り、ズームのチームメンバーとして迎え入れられたのです。

アメリカでの進歩を目にした日本や世界のファンは、勝利が近く、長く破られることのなかった屋外5,000m、10,000mの日本記録を破ることになると信じています。まだ24歳の大迫は、ナイキ オレゴン プロジェクトでのトレーニングを目覚ましい結果につなげつつあります。ニューヨークのアーモリートラック・インビテーショナル大会の2マイルで2位の快挙を遂げたことは、人々の目を驚かせました。日本記録を樹立し、有名アメリカ人ランナーよりも先にゴールしたのです。そして2014年アジア大会10,000mで銀メダルをとったことも考えると、彼が伸び盛りの新星であると実感できることでしょう。

  • 日本記録 5,000m(室内)
  • アジア大会 銀メダル 10,000m
  • ユニバーシアード 金メダル

ベスウェル・バーゲン:歳を取るごとによくなる、それにまだ若い

時間の経過とともにスローダウンするアスリートがいる一方、時間の経過をスローにするアスリートがいます。2009年、デビュー戦のヨーロッパツアーで1,500mの自己新を作って以来、ケニアのベスウェル・バーゲンほど意思の強さに裏打ちされた安定性のある進歩を見せる選手はいません。3,000m,マイル、1,500m,アウトドア、インドアの各種目で彼は常に記録を縮め(1,500mでは09年から4秒、マイルではほぼ7秒)、有力選手から2016年のメダル候補へと変身していきました。レジェンドへの道のりにいる選手としては、すでに目覚ましい成績もあげています。1,500mの自己記録である3.30.77は、この競技で歴代トップ50に入る記録で、インドアのベストの3.34.65は歴代20位以内です。2013年のモナコ・ヘラクレス大会では1,500mで5位、13年世界選手権ではケニア代表となり準決勝に進みました。彼はこの夏そしてリオの大会にもさらなる進化を見せることになるでしょう。

  • マイルの自己記録 3:50.42
  • トラック&フィールドニュースのマイル種目世界トップ10に2度ランクイン
  • 2014世界インドア選手権1マイルでケニア代表中1位、総合8位

アンドリュー・オサジー:“ただみんなを追い抜きたいだけなんだ”

必要に駆られて走る人がいる一方、走れるから走る人もいる。そして純粋に、人を追い抜くのが好きだから走る人がいる。「ゆっくり走るなんて考えられません。」アンドリューはランニング以外にも、あらゆるスポーツでそれを試しています。「小さい頃はフットボールをやっていました。バスケットボール、水泳、テニス、バドミントンも、あらゆることを全てやりました。フットボール、ラグビーとホッケーも。みんなの20ヤードほど前にあるものを打って、私はそれを追いかけていたのです。私の運動神経が活かせるで、スポーツは楽しかったです。」と、当時を思い返します。

実際のところ、彼は自分がフットボールをするために生まれたと考えていました。大学チームでゴールを決めた時に、「これで決まりだ。トップチームに入って、キャリアを進んでいける」と考えましたが、文字どおり試合の最後のキックで、ボールを蹴るはずが前にいた選手を蹴り、靭帯を断裂してしまいました。「もともと大学は陸上のために来たのだけど、陸上をするとなればフットボールをやめなくてはいけない。」と考えました。他のスポーツを諦めなくてはならなかったのですが、陸上への熱意が彼を推し進め、怪我をも乗り越えさせました。怪我の多くは左右の足の長さが9mm違うということが主な原因で、そのため彼は変わった練習方式を取り入れざるを得ない状況でした。多くの世界レベルの選手よりも少ない距離を走っていても、彼は早く走ることができました。

「ある意味、全てにスピードを加えることは私にとっては、とても簡単なことでした。練習中に、私のコーチに聞いても同じことをいうでしょう。私はシーズンを休んだ後に復帰したところなので、おそらくジョギングにも苦しむでしょう。それでもトラックでは真剣になります。休んだことも感じさせないほどに、ものすごく早く走ります。文字通り、瞬間に速さが生まれるのです。スピリチュアルなものでもありませんが、速いスピードで走る方が本当に自然に感じるのです。そのスピードで走る時にだけ、思っているものにアクセスできるように感じるのです。説明すると本当に不思議に聞こえるのですが。」

最近いくつか厳しいレースを経験したものの、表彰台はそれほど遠い所ではないと知っています。「負けることで人格が鍛えられます。イギリスの寒い気候の中、凍りついているような中でも外に出て走ろうという理由が見つかります。忘れない、後悔しない。それが私の決まり文句の一つです。世界の最高の選手を100%負かせるはず。大きな大会が好きです。大会ではいつでも自分がステップアップして、良い記録や、シーズンのベストで走れるように感じます。」と彼は語ります。本当に望むことを悟れば、それを言葉にするのは簡単で、それは人を追い越すことです。

  • 世界インドア 銅メダル2回 800m
  • オリンピック決勝出場, 800m

ハナ・イングランド:時には自分の力を生かすことが容易ではなくなる

長身、細身であれば、要素は揃っている。しかしそれが完全にコントロールできないこともあります。ハナ・イングランドのキャリアは、稀な素材を生かしきることができるか、の挑戦でした。彼女自身、若い頃は特に器用でもなかったと認める一方、現在では自分の体をよりうまく使えるようになっています。「長いてこ」を持った体です。私のキャリアにおいて、それをどううまく使いこなせるか、というのが問題なのです。それをできるだけ強くして、自分の味方として活用すること。私がいつかパワフルになり、器用に体が使えたら、とても大きな強みになるはずです。」彼女は、自分がすこし不器用だったと思っていますが、記録は別の事実を示しています。10代前半からレースに勝つようになって以来、彼女はズームのチームメンバーに加わる運命にあったのです。彼女にとって初めての快挙は、バーミンガムで行われたイギリスの大きなイベントで15歳以下の競技に出場した頃のことです。

「16歳で本当にランニングが大好きになりました。あのスピード感、速さがとても気持ちよかったのです。学校で男の子たちを負かすのも嬉しかった。横一線に並んだ後に、男の子を後にするのは楽しかったです。」と彼女は話しています。まもなく彼女は全国ジュニアチャンピオン、世界ジュニア代表、そしてフロリダ州立大学ではNCAAチャンピオンになります。現在では世界選手権の表彰台にも立つようになり、全ての「てこ」が正しい方向に使われているようです。「私は習慣的な人なのです。何かを練習すればするほど、それを信じられるようになる。そしてレーストラックでの活動が1年間同じ状態になります。そしてシーズンが終わりになると、それを壊そうとします。ある意味アスリートとしての進化のためなのですが、それでもいつも前の夜には気持ちの良いゆっくりとしたジョギング、ストライドの練習、幾つか他の練習をやって気持ちよくなり、レースの日にはいつも決まったことを繰り返します。レースの数時間前から予定が決まっていて、何を食べるか、いつ食事を止めるか、いつ昼寝をするかもいつも同じです。」この習慣がうまくいっているようです。

  • 世界選手権 銀メダル 1,500m
  • UKアウトドアチャンピオン3回 1,500m

王春雨:時計を戻し、熱気を高める

若いスプリンターたちを率いる王 春雨の存在が、中国のユース陸上界を盛り上げています。中国が女子陸上競技で大きな注目を浴びるのは、ほぼ20年ぶりと言えます。しかし今やズームのチームメンバーに加わる20歳の王春雨は中国を牽引しています。「王」の名前どおり、若い中国陸上ファンを前に彼女は喜んでその地位を受け入れています。彼女が頭角を見せたのは、15歳の時の地元の大会、そして16歳になった年の2月、最年少で全国インドア大会で優勝します。さらに4年前、世界ユース選手権において、800mの自己新記録2.03.23を16歳で記録し注目を集めます。これは中国人としては5年半ぶりに出した良い結果であり、さらに、中国ユース選手としては14年来のベスト記録、16歳の800mランナーとしては中国で最高の記録となりました。その2年後、2013年アジア大会では、バーレーンのゲンゼブ・シュミ・レガサやインドのティントゥ・ルカを2秒近く離し、女子800m で金を勝ち取ります。現在20歳の王春雨はさらにスピードを高めようとしています。

  • アジア大会ゴールドメダル, 800m
  • 世界ユース選手権, 800m 銀

マイディーヌ・メキシ:新しいコンセプトで「自分のレースを走る」

偉大なアスリートには色々な形があります。クールで冷静だったり、熱意と意欲にあふれていたり、燃えるような感情を見せる人もいます。マイディーヌ・メキシはまた違う姿を見せています。中距離ランナーは、他の種目の選手とは少し変わった性格を持つことで知られています。そのため、メキシもその流れを汲んだ、炎のような速さを持つエキセントリックなスピードスターであると捉えることもできます。ランス生まれでフランスへの愛国心を蓄える30歳の中距離ランナーを突き動かすのは、自立心と、彼には見えていないかのようにフィニッシュラインを目指す尽きない欲望です。ズームのチームメンバーの中にあっても、彼は独特な存在です。彼のチームメイトとの独特かつ複雑な関係、レースに欠かせないマスコットやジャージーさえも注意を引くものですが、彼は自分の足でしっかりと人々の尊敬を勝ち取っています。

「自分のイメージを計算したりはしません。練習して、フランスチームのためにメダルをとりたい、それだけです。みんなに好かれることなんて不可能です。私は他の誰かのようになりたくないし、自分らしくありたいのです。」と話します。2014年、3,000mのホームストレッチで勝利を喜ぶあまりシャツを脱いで失格になったという有名な事件以来、マイディーヌは逆境から立ち上がり、自分の強さを見せる機会を得ることになります。「失格になったあと、唯一私ができることはもう一度トラックに戻り、そのタイトルを勝ち取ることでした。私はそれを実現しましたが、それほど多くのアスリートにできることではなかったでしょう。喜びから一転、失格の悲しみを味わいましたが、私はチャンピオンとしてそれに対応したのです。」自分らしさを貫く彼は、今やヨーロッパ屈指の速さを誇ります。偉大なアスリートにはいろんな姿がある。いずれ彼も金メダルを取る日がくるでしょう。

  • オリンピック銀メダル 2回 3,000mSC
  • ヨーロッパアウトドアチャンピオン 3回 3,000mSC
  • 世界選手権銅メダル 2回 3,000mSC

アナ・クラウディア・リモス・シルヴァ:高度を変えて、態度も変わる

彼女ほどの速さを持ちながら、アナ・クラウディア・リモス・シルヴァは自分の中にある速さに気づくまで、すこし時間がかかりました。そして、多くのブラジル人先輩アスリートと同様、アナもフットボールがなければ自分がオリンピックに行く機会に気づくことがなかったかもしれません。彼女のスピードはピッチの上で見出されましたが、ランニングへの情熱を高めるには時間がかかりました。

2009年、ジュニアレベルで4年間勝ち続けたあと、アナは決断に迫られました。これからも友達とモールに買い物に行く生活を続けるか、あるいはフルスピードでオリンピックの金を目指すか。その時に彼女が気づいたことは、自分が試合や練習の時に一番ハッピーになれる、ということでした。「だって一番好きなことをしているのですから。」アナは新しいコーチ、ブラジル人オリンピアンのナカヤ・カツヒコに師事し、彼とともにBM&Fボヴェスパの陸上クラブでの練習を始めました。「偉大なチャンピオンとは、恐怖心を制する方法を知る者である」という、ブラジル男子バレーボールチームのレゼンデ監督の言葉を心に留めています。そして今や彼女は南アメリカ陸上界のもっとも鮮やかな新星の一人です。

「朝ベッドから起きたくない時に私を励ましてくれることは、勝ちたいという思いです。そうしたらすぐに起きられますよ!」と彼女は話します。2010年の南アメリカ選手権はコロンビアの高地で行われましたが、自身の100mベスト記録を0.4秒縮め、ルシマー・デ・モーラが持つ南アメリカ記録の11.17に並びました。2013年にはグランデ・プレミオ・ブラジルのカイシャ・ゴヴェルノ・デ・パラ・デ・アトレティスモで、大勢が応援する目の前で大陸記録の11.05を樹立しました。「母への素晴らしいプレゼントになりました。」と彼女は話します。ちょうどこの日は、ブラジルで「母の日」だったのです。「母は一日中祝ってくれるでしょう。そして私の夢は11秒を切ることです。ここまで来られたのは、厳しい練習で私をここまで引き上げてくれたナカヤ・カツヒココーチのおかげです。」今彼女は世界選手権とオリンピックでメダルを取ること、そして自分を世界に知らしめることを夢見ています。

  • 南アメリカチャンピオン 5回 100m, 200m, 4x100m
  • 全米大会 金メダル2回 200m & 4x100
  • 南アメリカ記録 100m, 200m