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2015年7月9日

AIR MAX 95 秘話:95年から永遠に

エア マックス 95の登場から20年が経ちました。特徴的なネオンイエローをあしらったこのシューズは、発表当時、機能的ランニングシューズの世界にパラダイムシフトを起こしました。店頭に並ぶ他のプロダクトとは全く違った外見を持つこのシューズは、発売から間もなく大きな注目を得るようになりました。

このシューズが見せる強さは、ナイキのフットウェアデザイナー、セルジオ・ロザーノが生み出したものです。エア マックス プロジェクトに携わることが決まったその日から、ロザーノは自分の信念とチームへの信頼を頼りに、数えきれないほどの修正を繰り返した後、やっとエア マックス 95を生産へと導いたのです。簡単な道のりではありませんでした。

エア マックス 1と同様、ロザーノのデザインは当初かなりの反発を受けました。「最初のコンセプトレビューでは、エア マックス 95に全会一致の賛成を受けたわけではありません。良いと言う人もいれば、嫌いだと言う人もいました。」と、エア マックス 95のデザインの過程で経験した障害についてロザーノは振り返ります。しかしチームのサポートを得て彼は自分のビジョンに従い、エア マックス ファミリーの名を継ぐに相応しいスニーカーを作りました。「私のアイディアを支えてくれた何人かの人がいてくれたおかげで、このシューズが作られたのです。」とロザーノは述べます。

「最初のコンセプトレビューでは、エア マックス 95は全会一致の賛成を受けたわけではありません。人によって良いという人と、全く嫌いだと言う人がいました。」– セルジオ・ロザーノ

リスキーなビジネス

90年代頃までにはナイキランニングの盛り上がりは沈静化し、台頭をはじめたナイキバスケットボールにその地位を譲る状態でした。バスケットボールの人気が高まり、世代を象徴するようなカジュアルスタイルを生み出す一方、ランニングチームは何とか追いついていこうとしていました。そんな中、エア マックス 95のプロジェクトは70年代後半から80年代初頭にかけての、ランニングカテゴリーの勢いを盛り返すためのプロジェクトと位置づけられていたのです。そのため、大胆、挑発的かつこれまでに存在しなかったようなものになることが求められました。「ランニングチームとしては少し新しい血を入れて、リスクを取ろうと望み、私がそのリスクそのものだったのではないかと思います。」とロザーノは振り返ります。

始まり

1994年以前、ロザーノはまだランニングの仕事はしていませんでした。主にテニス、トレーニングとACGを担当していた彼にとって、突然の変化は意外なことではありませんでした。というのも当時のナイキデザインチームはかなり小規模で、一人が幅広いカテゴリーを扱うのも一般的なことでした。そしてナイキでのキャリアを始めてたった4年のロザーノが、最新のエア マックスのプロジェクトを率いることとなったのですが、実は彼のコンセプト開発はその前からすでに始まっていました。彼がエア マックス プロジェクトに採用されるずっと前のある雨の日の午後、ビーバートンの風景からロザーノはあるアイディアを思いつきました。「池の向こう側にある木を眺めていると、雨が地面を侵食していく姿が思い浮かんできたのです。そして、もし地中に完璧なプロダクトが埋もれていて、このような雨の侵食で発掘されたとしたら面白いなと想像したのです。」とロザーノ。そのような想像をもとに、彼はグランドキャニオンの岩の壁に見られるような筋のあるシューズのスケッチを描き、アイディアの引き出しにしまっておいたのでした。

アイディアを形に

それから数か月、スケッチは引き出しに眠り続けていました。事態が変わったのは、エア マックスに関する最初のブレインストーミングが、ロザーノにとっては不満な形で終わった時でした。エア マックス ファミリーを活性化するためには、何か本当にユニークなものが必要だと考えたのです。間もなく彼の頭の中でひらめきが起こり、あの雨の日のスケッチが日の目を見ることになったのです。スケッチを青写真にロザーノとチームは前足部のビジブルエアの実現を目指しました。優れた保護性を求めるランナーに究極のエアクッションを提供するためです。

ここまでは進歩したものの、ロザーノの頭には一つの疑問が残っていました。なぜなら「他のプロジェクトに関わっている時に、ティンカー・ハットフィールドが常に「いいデザインだね、それで自分の伝えたいことは何?」と私に聞いていたことを覚えていたからです。」とロザーノは言います。そしてその伝えたいことは、ナイキのデザインライブラリーにあった解剖学の本から見つかりました。ロザーノはまた、身体の様々な部分の作りがナイキプロダクトにも多くの点で深く繋がっていることが気に入ってました。その後の作業は簡単でした。「私のやるべきことは、最も納得のできる繋がりを選んでいくことでした。」人間の肋骨、背骨、筋肉や皮膚を主なインスピレーションにエア マックス 95の最初の試作品が作られました。

簡単なことならやる価値はない

エア マックス 95の最大の魅力でもあるその個性は、その最大の障害でもありました。デザインが検討される段階になると間もなく、ロザーノとチームはまだ自分たちがすべての障害を乗り越えていないことに気づかされました。その外観があまりにもユニークであったため、市場でどう受け入れられるのか、その可能性に疑問を持つ意見が出たのです。「好みの分かれるデザインだったのです。ただ、そのように感情的な反応がある時には、そこに何かつかみどころがあるということも事実です。」とロザーノは説明します。当初、その進歩的なデザインの中に、スウッシュロゴは全く含まれていませんでした。加えて、前足部のビジブルエアと黒いアウトソールという、ナイキにとっての初めての2つの試みも懸念材料となったのです。しかしロザーノとチームは諦めることなく、ついには反対派を納得させました。

エア マックス 95のやっと見えるくらいのスウッシュロゴについて質問すると、ロザーノは当時の熱意をよみがえらせるように答えました。「ナイキのシューズとすぐにわかるのだから、デザイン自体を引き立てたかったのです。ビジブルエアは今までもありましたが、このシューズは初めて前足部にも搭載しました。」またスウッシュをどこにつけるかといいう問題もありました。シューズのデザイン上、アッパーを横切るような通常の場所にロゴをつけると、デザインの持ち味を損なう恐れがあったのです。最終的にはスウッシュはアッパーのかかと近くにつけられることになりました。「スウッシュはアクセントのように使いました。」とロザーノ。

デザインの工程が最終段階を迎え、発売時に打ち出すカラーを決める時が来ました。当初、ロザーノはシューズの他の部分と同様、カラーにも機能性を持たせたいと考えました。「オレゴンでは雨の日も、トレイルで走ります。すると5マイル(約8km)走っただけでもシューズがものすごく汚くなりますから、それをなるべく目立たないようにしたかったのです。」グレーを中心的なカラーの一つに取り入れたのも、彼の大きな自信の表れでした。「当時グレーは売れないカラーだと聞いていました。そこで私は挑戦することにしました。」ブラックとグレーを泥などで汚れやすいシューズのベースに使い、上のほうに向かって明るい色合いへと移っていくような色使いにしたのです。そしてエア マックス 95の象徴的なカラーになったネオンイエローは、ナイキの歴史的なレース用ユニフォームに思いをはせる意味でも使われました。この色は現在でも陸上スパイクやクロスカントリー競技用シューズに使われ、注目を浴びています。

毎回のプロダクトレビューで浮上したさまざまな難題を何度も乗り越えながら、ロザーノとチームの忍耐力で、シューズの生産にまで何とかこぎつけることができました。彼の自信作は間もなくロンドンからニューヨーク、そしてさらに広がりを見せ始めた新しい音楽のムーブメントにも例えられ、その特徴的な サウンドはシューズの大胆な外観にもつながるかのようでした。ユースカルチャーの中にもエア マックス 95は絶大な支持を受け、エア マックス シリーズは定番的存在となっていきました。ランニングカテゴリーの賭けは成功を納め、フットウェアの原動力としての地位を取り戻すと同時に、世界中の若いデザイナーの心も惹きつけました。20年という熟成期間を経てもなお、セルジオ・ロザーノのコンセプトは現代デザインに影響を与え続けています。

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