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2016年6月10日

長い道のり
モハメド・ファラー

モー・ファラー(モーはモハメドの愛称)が2012年ロンドンの10,000メートル決勝で優勝した時、彼のサクセスストーリーはそこで頂点に達してしまう可能性もありました。残り3周というところから、おなじみのダッシュでフィニッシュラインまで駆け抜け、イギリスに金メダルをもたらしました。そして、幼い娘のリアーナと妊娠中の妻、タニアを抱きしめました。

そこで話は終わりにはなりませんでした。彼は1週間後にスタジアムに戻り、5,000メートル走の決勝に出場したのです。スタート台につく頃、タニアは双子の出産を控えていました。ファラーの頭の中では、金メダル1つでは足りない、2人の赤ん坊が生まれてくるなら、メダルが2つ必要だと考えていました。レースが始まると、ライバルに追いつかれそうになるたびに彼らを引き離すという、今でも語りつがれるすばらしいレース展開をしました。最後には、再びゴールへのダッシュで優勝を掴み取りました。

喜びと驚きの表情と共に、腕を大きく広げて、勝利を噛み締めながら、ユニオンジャック(イギリスの国旗)を羽織り、ファラーのおきまりのポーズの「モーボット」ダンスを踊りながら、彼に大きな声援を送ってくれた自国の観衆に応えました。彼は当時を思い出し次のように語っています。「本当に熱烈な支援を受けました。人生最高の瞬間でした。あの時、私の人生は一変しました。あのレースに勝った事は私にとって本当に大きな意味がありました。75,000人が自分の名前を叫んで応援してくれる、これ以上素晴らしいことが他にあるでしょうか。」

ファラーは、ペア、二進法の数字、二面性・・・など、対になっているものの力を理解しています。自身も双子であるファラーは、1993年ソマリアのモガディシュで兄ハッサンの数分後に生まれました。2人が8歳の頃、父親が既に働いていたロンドンに移住する準備をしていた矢先、ハッサンの具合が悪くなり移動することができなくなりました。家族はハッサンを残して行かざるをえなくなり、数ヶ月後に彼を迎えに戻ってきた際には、ソマリアは内戦が勃発して、ハッサンが親戚とやむをえず知らない場所へ避難したことを知りました。結局、ファラー一家は、ハッサンなしでロンドンに戻りました。

この別れは、馴染みのない土地でのファラーの成長に大きな影響を及ぼしました。テレパシーに近い絆を双子の兄と感じ、ハッサンの精神的・肉体的な状態を感じることがあったことを覚えている、とファラーは語ります。ファラーは、兄の不在を強く感じながらも、言葉も全くわからない新しい国の生活に慣れることに意識を向けざるをえませんでした。いとこから「すみません」、「トイレはどこですか?」、「さあ、やってみろ!」といったフレーズを教わりましたが、日々の生活はやはり難しく、学校でケンカになることもあれば、恐怖心、孤立感、焦燥感に駆られることもありました。

サッカーに安らぎを見出したファラーは、地元のクラブに入団しましたが、全然スキルがなく、むしろボールと一緒にただ走っていれば満足でした。そうやって彼が遊んでいた時に、彼の自然なランニングスタイルが体育の先生の目にとまりました。クラスメートに受け入れられ、新しいコミュニティで自分の居場所を見つけようともがいているファラーに、その先生は彼が求めていた目的意識とサポートを与え、11歳の彼が正しく指導してもらえるように地元のランニングクラブに入ることを勧めました。

ファラーは次のように話しています。「若い時の周囲の助けなくしては、これまで成し遂げてきたことを達成する事はできなかったと思います。人生には正しい事を自分でしなくてはいけない時期が来ます。ランニングでは、誰も自分の代わりになってくれる人はいません。悪い日も、良い日も、隠れることはできません。とても大変な時もあります。チームのみんなもできる限りの協力をしてくれますが、トラックに出て、走って結果を出さなくてはいけないのは自分です。コーチは指導してくれますが、一緒に手をつないで走ってくれるわけではありません。」

1997年、ファラーはイングランド学生クロスカントリー選手権大会(English schools cross-country championship)という名のある大会で初めて優勝しました。その後も幾つかの大会で優勝を続け、2001年にはヨーロッパジュニア陸上競技選手権大会の5,000メートル走に出場し金メダルを受賞しました。この充実した期間中に、トレーニングキャンプに参加するためにフロリダ州に訪問した事をきっかけに、結果を出せば、その度に地元の町の外へと行くことができる、勝利を収めれば、その分ハッサンに近づくことができる、と、ランニングがもたらす可能性に気付き始めました。

一流のコーチの下でトレーニングし、高いレベルで競技を続けながら生活していくために、ファラーはファーストフードレストランで、そしてスポーツ店の販売員として働きました。2003年、ようやく兄を探しにソマリアに戻るだけの貯金ができました。この再会を、こんなに嬉しかった事はなかった、とは話しています。全く異なる生活をしていた二人でしたが、すぐにお互いの事がわかりました。10年以上ぶりに耳にしたハッサンの声は、ファラーにはまるで自分の声のように感じました。

兄との再会で、ファラーの心に空いていた穴が埋まりました。ロンドンに戻り、その後すぐに彼のランニングキャリアが本格的に始動しました。ファラー曰く、2005年は「分岐点となった年」で、その年彼は、ケニアのエリート長距離ランナー達と同じ家に移り住みました。この経験が、彼の物の見方を大きく変えました。ファラーは次のように話しています。「私は若い時そこまで一所懸命頑張ったことがありませんでした。ケニアの仲間達を見た時、私は目が覚めました。今後も彼らと競っていかなくてはいけないなら、僕はもっと頑張らなくては、と思わされました。2005年以来、本気になり、私の生活は食べる・寝る、そして練習が中心となり、今もそれは変わりません。」

ファラーのトレーニングの中身が濃くなるにしたがって、結果もついてきました。2006年にはヨーロッパクロスカントリー選手権大会で金メダルを獲得し、自己最高記録を13:30.53から13:09.40に更新しました。しかし、偉業を達成し始める一方で、一流の大会で競技する事のもう一方の現実、激しい失意の味も知るようになりました。2008年、北京での5,000メートル走に出場はしたものの、決勝に残る事はできませんでした。

強い意志の持ち主であるファラーは、この負けを1つの兆しととらえました。生まれつきの才能と努力でここまで来られたが、これからは多角的なトレーニングを試し、注力する点を改める必要があると考えました。「5位で終えた走者のことは誰も知らないけど、首位で終えた走者の事は誰もが覚えています」彼はさらに強度を上げるのではなく、走行距離は減らしつつも、明確な目的のある変化に富んだトレーニングを、大会に向けた段階的なスケジュールで効果的に行う方法へと変更しました。

高地トレーニングも取り入れたこのトレーニング方法を、ファラーは今でも実行しています。「以前は、ランニングはただ走れば良いと思っていましたが、レベルが上がるほど、ウェイトトレーニングをしたり、体幹を鍛えたり、速度を変えて走ってみたりする事が重要になります。私のお気に入りのワークアウトは、スピードトレーニングです。ただただダッシュできるのがとても楽しいです。」

2011年には、ファラーには次の大きな2つのステップを踏み出す準備ができていました。新しいコーチへの師事と新しい土地への移動です。ファラーは次のように話しています。「アルベルト・サラザールが素晴らしいコーチであることは知っていたので、コーチをしてもらいたいと思っていましたが、その1つの条件として、家族と一緒に(オレゴン州の)ポートランドに引っ越さなくてはいけませんでした。これまでの人生で一番賢明な決断だと思っています。自分のコーチを信頼することは大事なことで、私とトレーニングパートナーのゲーレン(・ラップ)は、アルベルトを全面的に信頼しています。マラソンの記録保持者であるアルベルトが素晴らしい結果を残せたのも、彼のハードワークがあってこその事です。彼は普通のコーチではなく、経験と実績もあるのです。」

ファラーは史上最高の長距離ランナーであるだけでなく、最も規律正しいランナーの1人でもあります。ケガの時やレースに向けて「ペースダウン」している場合を除き、毎週練習で約125マイル(200km)走り、キャリアを通じて生まれ故郷のアフリカと第二の故郷イギリスとの間の距離を少なくとも1往復分走ったと言えます。

ファラーは次のように語っています。「秘訣は練習量です。毎週、毎月の積み重ねが、自分の力になります。実際、レース自体は楽な部分です。ただ、その前には家族や子供たちに会わずに、トレーニングキャンプに缶詰状態になって、何ヶ月も何ヶ月も準備しなくてはいけません。辛い時もありますが、その辛さをトラックにぶつけます。レースの事を考えないわけではありませんが、トレーニングこそがすべての始まりです。」

協力的で腕の良いコーチと、回復を早めるために冷却療法も取り込んだバラエティに富む熱心なトレーニング、この2本柱に支えられ、ファラーは低調な時にも、強い意志と集中力でこれを乗り越え、さらに優れた結果を出せるようになりました。2014年には健康面での心配があったものの、2015年には2マイル走で世界最高記録を更新、世界陸上では5つ目のタイトルを獲得する一方で、今年前半に行われた世界ハーフマラソン選手権では惜しくも3位で終了。これらの経験でファラーの意志はさらに固くなりました。「私の背中を追って、ライバル達は追ってきます。陸上界で私が残してきた記録を考えると、それは避けられないことです。彼らは私の事を全部把握しているし、研究してきます。ですので、勝負はどんどん厳しくなっていきます。」それでもファラーは、5,000m走と10,000m走両方での世界記録達成という歴史を残しつつ最高の姿で母国を代表し、そしてこの世界最高の長距離ランナーの終わりはまだ来ていないと今一度証明しようと固く決心しています。

「競技を楽しむことができなくなり、もうやりたくないと思う時が来れば、それが引き時です。でも、私はまだそう感じたことがありません。これまで以上に、大会に参加し、子供達のため、家族のため、自分自身のために走りたい。勝ちたい。歴史を作りたい。いつか子供達が感心して、パパはすごかったんだね、と言ってくれるように走り続けたいと思っています。」