2015年6月11日
プリフォンテーンの燃えるような闘志、大胆なレース戦術や、もって生まれたカリスマ性は、
多くの人をひきつけ、若いランナーたちに走り続ける意欲と全力を尽くす意志を与えてきました。
ナイキブランドが生まれ、スウッシュロゴをつけた初めてのシューズが作られてから2年後の1973年、この生まれたばかりのフットウェア企業が初めてスターランナーとの契約を結びました。オレゴン出身で並外れた才能をもつこの選手は、幾つもの距離においてアメリカ記録を樹立し、1972年にはミュンヘンの陸上競技最大の舞台で活躍し、スポーツ・イラストレイテッド誌の表紙には「アメリカ中長距離界の天才児」と紹介されました。
その天才こそが、22歳にしてアメリカ陸上界で最も有名な選手となった、スティーブ・プリフォンテーンです。戦士のような強い意志を持ったこのランナーは、まるで命をかけるかのような意気込みですべてのレースに臨みました。その闘志、大胆なレース戦術や持って生まれたカリスマ性は多くの人を惹きつけ、若いランナーたちに走る意欲と全力を尽くす意志を与えてきました。
「言葉や音楽を使ったり、筆と絵の具を使って創作活動をする人もいる。私は走ることによって美しいものを作りたい。人々の目を奪い「あんな風に走る人をこれまで見たことがない」と言わせたい。」プリフォンテーン
オレゴン州クーズベイのマーシュフィールド・ハイスクールの選手だったプリフォンテーンは、2マイルを8分41秒5で走り、自身初の国内記録を樹立しました。さらに1968年と1969年には連続して州のクロスカントリー選手権で優勝し、高校2年と3年の時にはクロスカントリーとトラック種目では負け知らずでした。高校3年の時にはランニングでトップレベルの名だたる大学からの勧誘を受けながら、オレゴン大学のヘッドコーチ、ビル・バウワーマンの手書きの手紙に心を動かされました。「その手紙には、私がオレゴン大に行けば、彼が私を史上最高の長距離ランナーにしてくれると書いてあったのです。私にとってはそれが一番聞きたい言葉でした。」と、プリフォンテーンは話しています。
高校3年の時にはランニングでトップレベルの名だたる大学からの招きを受けながら、
プリフォンテーン(左)はオレゴン大学のヘッドコーチ、ビル・バウワーマン(右)の手書きの手紙に心を動かされました。
1969年からバウワーマンとアシスタントコーチのビル・デリンジャーの下、オレゴンでトレーニングを開始したプリフォンテーンは、NCAA の大会で7度の優勝を果たします。(クロスカントリー種目で1970-71, 73の3回、1970-73年の間に3マイル競技で4回)。(太平洋地域の大学の大会である)Pac-8カンファレンストラック大会では、オレゴン大学在学の4年間の毎年3マイルレースで優勝したのに加えて、1971年にはマイル競技でも優勝しました。さらに在学中を含む1970年から1975年の間、ホームとなるオレゴン大学のヘイワードフィールドでは38戦35勝という目覚ましい記録も遂げました。
「単に走るというだけではなく、見ている人に興奮を与えたい。」プリフォンテーン
プリフォンテーンが活躍していた時代、ランニングは注目を浴びる競技とは程遠い存在でした。ドライバーたちは道路の邪魔になると、ランナーの横を過ぎる時に怒鳴りつけたりゴミを投げることもありました。しかし、そのように疎まれる存在を尊敬の対象へと変容させたのがプリフォンテーンでした。圧倒的な成績と勝利を体現するような人柄で、初めて彼はランニングを「かっこいいもの」へと変えたのです。プリフォンテーンとナイキとのつながりにより、スウッシュは信頼出来るランニングブランドとして確立し、アメリカのシューズ販売会社が世界的なブランドへと変貌していきました。
プリフォンテーンは、NCAAの大会で7度の優勝を果たします。(クロスカントリー種目で1970-71, 73の3回、1970-73年の間に3マイル競技で4回)。
(太平洋地域の大学の大会である)Pac-8カンファレンストラック大会では、オレゴン大学在学の4年間の毎年3マイルレースで優勝したのに加えて、
1971年にはマイル競技でも優勝しました。さらに在学中を含む1970年から1975年の間、
ホームとなるオレゴン大学のヘイワードフィールドでは38戦35勝という目覚ましい記録も遂げています。
オレゴン大学の選手であったプリフォンテーンは、在学時代から頻繁にブルーリボンスポーツやナイキフットウェアと接触する機会がありました。(当時製品にはナイキブランドが、企業としてはブルーリボンスポーツあるいはBRSの名前が用いられていました。)1973年の夏、ナイキの共同創立者のフィル・ナイトとビル・バウワーマンは、プリフォンテーンのトレーニング費用の一部として、彼が人気のあるパドック・タバーンのバーテンダーとして働く負担を減らすために、毎年5,000ドルを提供することを決めました。トラックでの練習やマッケンジー川河畔での長距離走の合間を縫って、プリフォンテーンはユージーンにあるBRSストアの手伝いも行いました。やがてプリフォンテーンはBRSでプロダクトの知識を豊富に養い、指折りのセールスマンとなっていきます。彼は自分の名刺にパブリック・アフェアーズの全国ディレクターとプリントし、太平洋北西部を回りながらアスリートにトレーニングのコツを伝え、励まし、時にはナイキの新しいランニングシューズを紹介していました。
「プリの素晴らしいところは、ランニングに関してものすごく勉強熱心なところで、いろんなことを探り、学ぶことを純粋に楽しんでいました。」と、オレゴン大学でバウワーマンに師事し、ナイキの3人目の社員となったジェフ・ホリスターは述べています。ホリスターはユージーンのBRSストアをまかされ、プリフォンテーンとも建築、スポーツカー、それと何よりもランニングという共通の趣味をもつ近い友人となっていきました。
二人は高校、大学、スポーツ店やランニングクラブを訪れました。ホリスターは次のように語っています。「どこにいってもプリは必ず時間を割いて、そこにいる若者たちと一緒に走りにいきました。そして彼らのフォームを分析し、話しかけるのです。」プリフォンテーンは10代の若者にもすぐに溶け込み、陸上について語る才能を備えていました。著書「Out of Nowhere」で、ホリスターはプリフォンテーンがウエストアルバニーの学生と話をしていたことを回顧しています。
「まずゴールをもつこと。それをぜひ紙に書くといい。書くことによって、それが自分のものになるから。自分の時間を無駄にするんじゃないぞ。自分のベストを尽くさないのは自分の才能を無駄にすることだ。」とプリフォンテーンはアドバイスしました。
プリフォンテーンは遠くで活躍するアスリートに対しても、同じような姿勢で繋がっていきました。それがナイキのスポーツマーケティングの青写真を描くためにも役立っていきます。彼はエリート選手にナイキ製品を紹介したり、世界中のランニング仲間に自分のメッセージと名刺を添えてシューズを送りました。「それはまったく彼自身のアイディアでした。」とホリスターは語っています。プリフォンテーンはサンディエゴのメアリー・デッカー、ニュージーランドのジョン・ウォーカーやディック・クワックス、イギリスのブレンダン・フォスター、ケニアのキプ・ケイノにも送り「そして彼らはみんなナイキシューズを履くことになったのです。」とホリスターは話しています。
1975年4月、プリフォンテーンは73年製のナイキボストンと呼ぶシューズを、当時は比較的無名だったビル・ロジャーズに手紙を添えて送りました。グレイター・ボストン・トラック・クラブのチームメートの間でも、そのシューズの到着は話題となりました。当時はボストンの高校生で、ロジャースのチームメートだったアルベルト・サラザールは次のように語っています。「ナイキシューズのことを聞いたり、写真で見たことがありましたが、自分の目で実物を見たのはあれが初めてでした。彼はシューズをトラックに持って行き、私たちみんなで手にとり、誰もが本当に興奮しました。単にナイキシューズだったからというだけではなく、まあそれもあったのですが、何よりも大きなことは、スティーブ・プリフォンテーンが手紙と一緒に送ってくれたものだったからです。」その数週間後、ロジャースは地元のマラソン大会でそのシューズを着用し、優勝しました。
ナイキにとってプリフォンテーンは、陸上トラックの象徴的存在であり、オリジナルかつ一人一人の心に繋がる方法で
アスリートに刺激を与える方法をナイキと一緒に作り出していったアスリートの第一人者です。
プリフォンテーンはまた、アマチュア運動連合(AAU)の偏った規則にがんじがらめになっていた、アメリカの陸上競技選手のための活動を進めたことによっても知られています。1970年代、オリンピック出場を目指す選手はアマチュアで活動を続けることが求められ、スポーツのトレーニングをしながらも、その他の手段で生計をまかなうことが必要という苦境に立たされていました。AAUがランナーの競技日程を管理し、アスリートの出場によって与えられる報酬の大半を独占していました。プリフォンテーンは1976年のモントリオール大会の出場資格のため、20万ドルを超えるプロの契約金を諦め、AAUが認めた最大3ドルの日当を得ていました。
「アマチュア精神は1920年代になくなってしまった。普通のアスリートたちは本当に苦しい生活をしているんだ。」
プリフォンテーン
彼は、自分の競技参加資格を失う覚悟でAAUの不平等への疑問を広く訴え続けました。プリフォンテーンは、アマチュア資格は失いませんでしたが、モントリオール大会に出場するという願いは叶いませんでした。最後の試合となったのは1975年5月29日、彼自身もフィンランドの代表チームメンバーやフランク・ショーターなど長距離の有力選手の出場のための準備にも関わっていました。5000m競技に参加したプリフォンテーンは、最初の2マイルはショーターの後を追っていましたが、3周を残したところで一周63秒のペースに加速し、ヘイワードフィールドの7,000名の観客の前で最後のラップを60.3秒で周り、自身がもつアメリカ記録を凌ぐ13分23秒8で優勝しました。
彼はビクトリーラップを走り、オレゴン大学陸上部の祝賀会に参加した後、友達と一緒にのんびりと祝賀ムードの中で過ごしました。その夜、日付が変わって間もない頃、アメリカ最大の陸上スターに悲劇が訪れます。帰宅途中の運転中、自動車事故によって、24歳の短い一生に終わりが告げられたのです。
彼はたくさんのものを遺しました。あらゆる世代・レベルのアスリートにとって、プリフォンテーンとは「一生懸命練習をして試合に全力を出し尽くすべき」という理念を体現する存在です。ナイキにとっては、陸上トラックの象徴的存在であり、オリジナルかつ心に繋がる方法でアスリートに刺激を与える方法をナイキと一緒に作り出していった第一人者です。さらにAAUの拘束に苦しんでいた仲間のランナー達にとって、プリフォンテーンはプロ転向への流れを作り出したリーダーでした。プリフォンテーンの死後、ナイキ及びその他のランナー達が彼の活動を受け継ぎ、1978年にはアメリカ議会によってAAUの廃止が決定されました。おそらくこれが、プリフォンテーンが陸上トラックに遺したもっとも重要な遺産でしょう。
「プリは労働者階級の反逆児とも言うべく、生意気でガッツに溢れる男でした。そんなプリの精神がこの会社の魂の根幹にあるのです。」
ナイキ共同創立者 フィル・ナイト