3月中旬の木曜日早朝、日の出数分前の肌寒い時間に、ケニア西部にあるグローバル・スポーツ・コミュニケーション・キャンプ（GSC）のゲート前で、地元のランナーたちが立っています。
彼らはこのキャンプに所属するプロアスリートたちと、毎週行われるロングランに参加するため待っているのです。ルートは20キロから40キロの範囲で設定され、プロ選手たちのトレーニングスケジュールに応じて距離が変わります。今日のトレーニングは30キロの往復コースで、地元ランナーたちはその猛烈なペースについていこうと最善を尽くしますが、徐々に離脱していきます。このプロアスリートたちの中心に、陸上競技史上最も偉大なアスリートの一人であるフェイス・キピエゴンの姿があります。

空は深い暗紫色に染まり、太陽が昇り始めるとピンク色に彩られ、周りには焚き火とユーカリの甘い香りが漂います。6時ちょうどにランナーたちはスタートし、ネオンピンク、オレンジ、イエローのスニーカーが赤土の道を走る彼らの足音を響かせます。彼らは静寂の中を走り、視線はまっすぐ前を向いていますが、互いに些細な身振りをして、道の穴や障害物を知らせたり、グループのフォーメーションを変えたりしています。足音の他に聞こえる音は、鳥のさえずり、時折聞こえる牛の鳴き声、そして車が通り過ぎる際の雷鳴のような音だけです。

ケニアの農村で新しい一日が始まります。道中、ランナーの集団が学校へ向かう子供たちを追い抜いていきます。子供たちの大きめのリュックサックが小さな背中の上で上下に跳ねています。
1500メートルで3度のオリンピック チャンピオンで1マイル競技の世界記録保持者、15年以上に渡りナイキのアスリートであり、類を見ない才能の持ち主であるフェイス・キピエゴンも、この子供たちと同じように学校に通う道すがらのここから、その道を歩み始めたのです。

フェイスは次のように話します。「まだ幼い女の子だった頃、学校へ行くときも家へ帰るときも裸足で走っていました。それが楽しかったのです。そして、今でも走ることが楽しいです。」
身長5フィート2インチ（約157センチ）の彼女はアイス バス（氷風呂）から上がり、ダウンジャケットに包まれて体を温めます。周りでは、仲間たちのユニフォームが茂みに掛けられ、暖かい朝の日差しの中で干されています。このキャンプから1時間ほど離れた田舎のンダバビットで小学生だった頃、フェイスは1日に約10マイルを走っていました。それ以来、彼女はさらに長い距離を走りつづけて来ました。そして今では足元にスウッシュをつけて走っています。

そのフェイスは現在、ある1つのことに集中しています。この夏、パリのスタッド・シャルレティにおいて、歴史上初めて1マイルを4分以内で走る女性になることを目指しているのです。

長い間、女性アスリートの1マイル4分切りはありえないだけでなく、生理学的に不可能だと考えられてきました。しかし、フェイスにとっては、まさにこの「不可能」というレッテルが、4分切りという挑戦を魅力的なものにしているのです。
フェイスは次のように話します。「私はオリンピックで3度優勝し、世界選手権のタイトルも獲得しました。そこで、他に何ができるだろう？並外れた夢を見るのも良いのでは？と考えたのです。」

主にメートル法で活動しているフェイスと彼女のケニアの仲間たちにとって、マイルには新鮮さがあります。その距離は、フェイスが「a big thing(大きなもの)」と呼ぶように、あらゆる意味でベンチマークとされています。北米では幼い頃からマイルを基準にして測り、小学校から上級生までフィットネステストとしてマイルをスプリントします。また、トラック4周を可能な限り速く走るというマイル走には美しいシンプルさがあります。

約70年前、イギリスのランナー、ロジャー・バニスターは1マイル走で偉大な記録を樹立しました。人類初の4分切り、3分59秒4を達成したのです。彼が成功する以前は、これは人間にとって不可能な偉業と考えられていました。しかし、バニスターがその壁を破って以来、約2,000人ものエリート男性アスリートが同様の記録を達成しています。これは、不可能だと思い込む意識の壁を打ち破ることが重要だということを示しています。

2023年、フェイスはモナコで行われたダイヤモンドリーグで、4分07秒64のタイムを記録し、これまでの女子マイル記録を打ち破りました。これにより「女性が4分を切ることは可能だろうか？」との声が広がり始めました。彼女はこの記録から7.65秒を縮めることを目指し、自身の伝説を打ち立てようとしています。

どうすればこの偉業を達成できるでしょうか？全力をだし、自身を限界まで追い込んで1マイルを走るレースを経験したことがある人なら誰でも、4分7秒64と3分59秒9の間にある壁がいかに巨大かを理解できるでしょう。ナイキはその壁を打ち破るために、アパレルやフットウェアのイノベーションに加え、場所、空力学、効率性といったあらゆる要因と利点を検討しています。一方、フェイスは自身のマインド（内面）に焦点を当てています。まず、彼女は心理的な壁を克服することに取り組みます。

フェイスは次のように話しています。「すべては自分のマインドにかかっています。身体が健康でも、心がそこに集中していなければ意味がありません。自分自身にできると言い聞かせ続ければ、実現することができるのです。健康的にトレーニングし、怪我なく過ごすイメージを持つべきです。チャレンジ当日の様子や、その日に自分がどうなるかを夢見ることです。夢を見るのをやめてはいけません。モナコで1マイルの世界記録を破った時のことを思い出します。それは自分の走りを振り返るのにとても役立っています。レースで走っている自分を見つめることで、これから何を変えるべきかのアイデアが得られます。」

フェイスにはもう一つの強力な武器があります。それは、メンターでありトレーニングパートナーでもあるエリウド・キプチョゲの揺るぎないサポートと指導です。彼は2019年に不可能とされていたマラソン2時間切りの壁を打ち破る偉業を1時間59分40秒という記録で成し遂げました。フェイスとエリウドは10年来の知り合いで、フェイスが娘を出産した後に競技に復帰してからの6年間、共にキャンプでトレーニングを行っています。彼らの関係は兄妹のようで、温かく、遊び心があり、お互いを尊敬し合っています。二人には集中力と規律を持ち、野心的といった多くの共通点があります。
しかし全く違う点も持っています。エリウドがほとんど禁欲的と言えるほど深く内省する人物である一方で、フェイスは活発で生き生きとしています。

二人のやりとりを見てすぐにわかるのは、フェイスこそが女性初の1マイル4分切りを成し遂げるアスリートであるとエリウドが確信しているということです。

エリウド・キプチョゲは柔らかな口調で説明しながら、真剣なまなざしで語ります。「フェイスの特別なところは、彼女が豊かな思考を持っていることです。彼女はどんな目標でも受け入れることができます。彼女は大きな夢を持ち、誰に対しても敬意を払い、一貫性のあるコミュニケーションが取れます。彼女はたくさんのアイデアを持ち、そこから最善のものを引き出すことができるのです。新しいことに前向きに挑戦するフェイスは、このチャレンジを受け入れるにふさわしい人物です。人生において大きなことを成し遂げるには、早く起きて遅く寝る必要があると言われています。スポーツにおいては、大きな夢を持つ人は、よりハードに、そしてより賢くトレーニングする必要があります。そしてフェイスはその通りにしっかりトレーニングしています」。

エリウドはキャンプの青々とした庭で、青いガーデンチェアに座っています。周りには果樹や花、低木が生い茂り、その根元には手書きの札が立てられています。成績やメダルや記録を記念したものもあれば、家族、友人、チームメンバーの訪問時にその名前が刻まれたものもあります。これらの木々は貴重な日陰をもたらしてくれるだけでなく、成長や成就、そして日々の努力を続けることで成し遂げられる素晴らしい進歩を象徴しているとエリウドは語ります。キャンプの部屋の壁と同様に、この庭にはモチベーションを喚起するさまざまな名言が書かれた札やポスターが飾られています。これらが呼び起こすポジティブなマインドは、エリウドやフェイス、その他の仲間にとってトレーニングをする上で重要であるだけでなく、それ自体がトレーニングです。
エリウド・キプチョゲは次のように話します。「心理的な部分をさらに鍛えるためには、身体的な部分をもっと鍛えることが必要です。良い方法で、一生懸命に、幸せな気持ちでトレーニングし、すべてを達成することができれば、心理的な部分はすでに鍛えられています。身体も精神も同時にトレーニングされるということです。」

フェイスとエリウドにはパトリック・サングという共通のコーチがいます。彼は6年間フェイスを指導し、23年間エリウドを指導してきました。
彼は、1マイルを4分切りで走るという並外れた目標を持つことは、才能と野心が飽くなき精神と結びついている特別なアスリートであるフェイスにとっては自然な成り行きだと考えています。

パトリック・サングは次のように話します。「人生において何をするにしても、それはかつて始めたことの続きなのです。彼女がこれまで成し遂げたようなことを達成してしまうと、次は『もしこうだったら？』と考える瞬間が訪れます。そして次に出てくる問いは、新しいことを『試してみたらどうなるだろう？』というものです。私たちは今まさに挑戦している最中であり、これは挑戦する価値があるものなのです。彼女はそれが自分の手の届く範囲にあると確信しています。周囲のすべてのシステムから適切なサポートがあれば、それは実現可能だと私も信じています。」

GSCキャンプは質素で静かな場所です。唯一の音は鳥の鳴き声やさえずり、そして時折響く笑い声です。ほとんどのアスリートは共同の寮で寝泊まりしています。彼らは掃除、床のモップ掛け、ゴミの整理などの家事を自分たちで分担していて、それはメダルの数やキャリアに関係なく、平等に交代で割り当てられています。小さなジムには、ウェイト、積み重なった木製スツール、トレッドミル、エクササイズ バイクがあり、片隅にエクササイズ ボールが積まれています。外の理学療法室の脇にアイス バス用の大きな青いプラスチックバケツが2つあり、そばには氷の入った冷凍庫があります。この施設を利用するアスリートたちは、世界最高峰の選手たちです。彼らはあらゆる利便性と最新の技術やイノベーションを利用することができます。しかし、彼らが最高のパフォーマンスを発揮するために必要なのは、月曜日から土曜日までの間にそれらの多くをあえて手放すことなのです。毎週毎週、彼らは集中力、規律、そしてチームワークを通じて自分たちの潜在能力を引き出すという選択を続けています。

チームワークやコミュニティは重要です。この考えはケニアに根付く価値観でもあります。2016年のリオ・オリンピックでフェイスが初めて金メダルを獲得した際、彼女は大きな報酬を受け取るのを避け、自分が育った村に電気を引くことを選びました。
フェイスは次のように話します。「オリンピック チャンピオンになったことで私の人生が変わり、同時にコミュニティの生活も変わりました。私が恩恵を受けると、コミュニティも恩恵を受けます。キャンプで過ごす中で最も重要なのはチームワークです。チームワークこそが私たちを成功へと導いてくれる原動力なのです。」

エリウド・キプチョゲもチームに関して次のような考えを話します。「私たちはチームを、『お互いを信頼する人々の集団』と定義しています。良い価値観、良い言葉、良いトレーニング、良い生活環境、良い人間関係、そして人間性をもたらすものすべてを通じてチーム作りをし、チームワークを築いています。フェイスは個人として勝つことができますが、その成功はチーム全体のものです。キャンプでシャイな新メンバーがリーダーの役割を担うようになったり、ランナーが長距離走の途中でフォーメーションを変えたりするのは、チームワークを重要視しているためです。トレーニングでは全員にチャンスを与えるようにしています。前を走ることで、自分が他の人々を導くことができるという自信が得られます。そのために全員にそのチャンスをローテーションしています。前に出て、そのモチベーションを掴むのです。」

金曜日の朝、キャンプのアスリートたちは、週に一度の筋力とコンディショニングのトレーニングのために、庭にヨガマットやフィジオボールを並べます。彼らはアシスタント理学療法士であるエリック・ムトゥリの指導を受けながら、互いに刺激し合い、集中し、一体となって努力します。テンポが上がってくると、フェイスは笑顔で仲間の何人かと目を合わせ、一緒に笑ったり、ふざけて抗議したりします。このトレーニングは、ケニアの大地溝帯にある標高約8,800フィート（2,700メートル）の場所で行われており、この高度では自然に呼吸をすることも困難です。しかしそれ以外は、他の都市のコミュニティ ジムで行われるようなルーティンと大きな違いはありません。トレーニングが終わると、アスリートたちは寮に戻り、本を読んだり、昼寝をしたり、誰かと一緒に外で静かに座ったりして、次のトレーニングに向けて精神面を準備します。休息と回復は非常に重要です。

キャンプを拠点に、フェイスと彼女のコーチ、そしてメンターが大胆な目標に向けて邁進する一方、別のサポートチームは他の場所で次の挑戦に向けた準備を進めています。オレゴン州ビーバートンでは、ナイキのチームが革新的なフットウェアとアパレルデザインを磨き上げ、1月にフェイスがナイキ スポーツ研究所（NSRL）を訪れた際に作成されたスキャンデータを基にした3Dモールドを用いてテストを行っています。彼女の訪問中には、ボディマッピング、基準テスト、VO2マックスの測定、さらにカラーパレットやデザインの方向性についての話し合いも行われました。レース当日の彼女のパフォーマンス、アパレルとフットウェア、空力学の問題を改善するためにあらゆる手段を尽くします。彼女はそれをすべて理解し、感じて、深く感謝しています。
フェイスはナイキについて次のように話します。「ナイキについてどう話せばいいのか分からないほどです。彼らは私をすべてにおいて支えてくれました。それも、まだ私のキャリアが本当に浅かった2010年頃からです。」

この挑戦は6月26日に、フェイスが2023年に5,000メートル、2024年に1,500メートルの新しい世界記録を樹立したパリのシャルレティ競技場のトラックで行われます。影響を与える要因としては天候や観客の大きな声援が挙げられます。そのトラックに立つ時には、頭の中では既に4分を何百回、何千回も破っているとフェイスは言います。「心理的には走りきっています。頭の中で、今日がその日だから、これをやらなきゃいけない、そしてこれ、次はこれ。これが朝起きてトレーニングに行く気力を本当に与えてくれるんです。」

もう一つ大事な原動力は、チャレンジ当日もゴールラインで彼女を待つ娘のアリンの笑顔です。
フェイスは次のように話します。「母親になったことで、私の精神的な姿勢が大きく変わりました。第一に、トレーニングをしているときは娘を置いてきぼりにしているからです。私は月曜日から土曜日までキャンプに滞在するので、娘と過ごせるのはたった二日間だけです。大きくなった今、彼女は私が何をしているのかを分かっていて、私が自分を追い込んで大きな目標を達成しなければいけないことも理解してくれています。彼女はランニングが簡単なことではなく、トレーニングと集中力がいることを知っています。彼女は、ママがレースに行くとき、それが真剣な競技であることを知っていて、ゴールラインで待ってお祝いをしてくれます。」

フェイスが家を離れるのは容易ではないものの、娘のためにお手本を示し、彼女が成長するためにより公平な世界を築く役割を果たしていることに意義を見出しています。フェイスはこう説明します。「母親であることは私に多くのことを教えてくれました。これが子どもたちに与えるべき指導なのです。どんなことでも、自分が選んだことに取り組まなければならないということです。子どもを励まし、子どもに道を示してあげることが必要です。障壁を打ち破るために外に出なければなりません。それが私のしていることです。」

原動力は、アリンだけではありません。トレーニング ランの一歩一歩、朝早く起きたりアイス バスに入るたびに、フェイスは女性や女の子たちのことを考えています。彼女は次のように話します。「この挑戦が女性たちの意識を変えるきっかけになるかもしれないと思います。男性にできることは、女性にもできるということを知り、夢を追いかけて、目標を実現する励みになればと思います。限界は打ち破るためにあります。これが女性としてのあり方です。」

土曜日の朝、エルドレットにあるキプチョゲ・スタジアムで、フェイスは毎週のトラック トレーニングをしています。ケニアの赤道直下の太陽は高く容赦なく照りつけ、アスリートたちが周回するあいだ影をまったく落としません。その強烈な太陽光でトラックは焼け焦げていますが、それは実用的で美しいものです。

ストップウォッチを手にしたコーチたちがフェイスの全力疾走を導く中、今ここで観ている全員が、彼女がいかに特別かを思い知ることになります。手が胸元に引き寄せられる、彼女特有の非常に効率的なフォームで彼女はトラックを疾風のごとく駆け抜け、そのストライドは、15年来のペースメーカー兼トレーニングパートナーであるバーナード・ソイのストライドと完全に一致しています。向かい風の中を走っていても、彼女は300メートルのリピートを43秒でこなし、多くのエリート男性アスリートがキャリアを通じて目指すペースを実現しています。トレーニングを終え、おそらく今週初めて目に見えて疲労した状態で、彼女は芝生の上に倒れ込みますが、仲間たちに囲まれながら、息を切らせて笑顔を見せています。

フェイス・キピエゴンと1マイル4分切りの挑戦”Breaking4“は6月26日に行われます。しかし、その挑戦はすでに始まっています。それは毎週のロングラン、筋力とコンディションのトレーニング、ケニアの森での涼しい早朝、そしてトラックでの過酷な暑い日々のことです。それは彼女がチームと共に過ごす月曜日から土曜日の間の、床を掃除したりチャパティを焼いたりする時間です。研究すること、革新すること、戦略を練ること、計画することです。そして何よりも、夢見ることです。頭の中で何度も行った徹底的なシミュレーション、自分の能力、集中力、トレーニングに対する完全な自信を持つことです。彼女には信念があり、私たちは彼女を信じています。